家族にしかわからない苦悩

認知症の祖父の介護体験についてお話します。

 

我が家は自営業を家族で営んでいます。祖父が興したお店でした。

 

戦後間もなくから必死で働き続けた祖父は、私の父がサラリーマンを辞めて店の手伝いを始めてからも、ずっと現場で働き続けていました。

 

八十歳を過ぎたあたりから、祖父の帳簿の計算が狂うようになりました。

 

歳なのでよくあることと思っていましたが、そのうち食べ物を買ってきては、それを食べずにいつまでも保管して腐らせるという行動が見られるようになりました。

 

寝タバコをすることも多く、タバコの火の不始末でボヤになりかけたこともあります。

 

いよいよ不審に思った両親が、祖父を専門の病院に診てもらいました。診断結果は中度のアルツハイマー病でした。

 

顧客に迷惑をかけてはいけないので、祖父を店から退けました。 仕事人間だった祖父にとっては、受け入れ難い現実だったと思います。

 

やる仕事がなくても、事務所の机に座って、1日中書き物をしていました。

 

そのようにおとなしく座ってくれてる間はいいのですが、ふらりと外に出かけて行っては、車道の真ん中を悠々と自転車で走っていたりします。

 

お金を持って行っていないのに、事務所の机の中にお菓子などの食品が入っていたり。

 

それを見つけた親は、心当たりのある店に行っては頭を下げ、支払っていない分の代金を払っていたりしました。

 

商売をやっていると、四六時中祖父の監視をするわけにはいきません。

 

苦肉の策で、外側から南京錠をかけて祖父が外に出られないようにしました。

 

家の中にいる時間が長くなった祖父の認知症の症状がどんどん進んでいきました。

 

夜中に何回も起きてはトイレに行き、トイレと別の部屋を間違えてすることもありました。

 

紐と紐を結ぶ行為に固執していて、電気の線と浴衣の紐がよく結びつけられていました。

 

幸いにも暴力的な行為が起こることは祖父にはなかったのですが、祖父の介護をする両親の疲れは日に日に増していきました。

 

時に冷たく祖父に罵声を浴びせる姿に、私の心も傷んだものです。

 

祖父は久しぶりに会う親戚や知人が来ると、突然認知症の症状がなくなるという不思議なこともありました。

 

ハキハキと辻褄が合うことを喋る姿に、周りの人にとっては祖父の認知症が深刻なものには映っていなかったのでしょう。

 

家族で話し合った末、専門の施設に祖父を入所させることを決めた時は、「かわいそうだ」と反対されたほどです。

 

専門の施設に入った祖父は、どんどん子供に戻っていきました。

 

比較的症状が軽い仲間が集まって、「あいつら全員馬鹿だ」と言い合っている姿に、苦笑いしたものです。

 

時間を見つけては、何回も祖父に会いに行きました。

 

夜ぐっすり眠れるようになった両親の表情も軽くなっていきました。離れてからの方が、家族の関係が良くなったような気がします。

 

特に母が、介護うつのような状態になっていたので、このような施設の存在は本当にありがたいものでした。

 

父がポツリと「もし俺がなった時は、迷わず病院に入れてくれ。」と言っていた言葉が、とても切実なものでした。

 

家族の数ほど介護の形は色々あると思います。1番大切なのは、何が正しいのか?ではなくて、その家族にとって何が適しているのか?だと思います。

 

それは決して周りがとやかく言うことでもなく、ましてや指図されることでもないと思います。

 

在宅で見守ることと愛情は必ずしも比例するのでしょうか。

 

その場にいる全ての家族が、少しでも幸せでいられることが大事なのではないでしょうか。

 

家族の幸せの形を追求することが、結果、お互いの尊厳を守ることにつながると信じています。

 

施設の中で周りに頼まれて、仲間同士の物の貸し借りの記録をつけたり、お祭りの出店でのお金勘定をしている幸せそうな祖父を見ていてると、よりそのように感じるのです。 

 

 

認知症を鑑別診断するテスト・検査

 

 

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